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Sorry Japanese Only . since2003/10/27 日蓮宗東光山護国寺鹿児島別院

戒を持つ難しさ

私たちは末法の世に生きていると、つくづく思い知らされます。いつから世間全体が利己的な欲に支配され、恥を知ることも忘れてしまったのでしょうか。ほんの数十年前までは、志のために命を捨てる人々、政治のために私財をなげうつ人々、貧しくとも悪行をしないことを誇りに生きる人々がいました。皆がそれぞれの「戒」を持ち、生きる幸せを知っていた時代です。翻って現実を案ずると絶望的になります。

私たち僧侶とて泥中の蓮華を心に描きながらも欲に操られ、戒を捨てて生きれば糞尿にまみれた生涯となります。持戒とは具体的に「殺生」「偸盗」「邪淫」「妄語」「両舌」「悪口」「綺語」「飲酒」をしないことです。簡単なことでもいかに難しいか…。人間ひとりでは生きられないが故に集い、集うが故に我欲の摩擦が生じてしまいます。まずは、自分自身が自己を律して生きることが大切です。
初代住職 井上日召上人

給仕の心

最近のいやなニュースを見たり聞いたりするたびに、「ああ、またか」と思う。給仕奉仕の心はどこへいったのかと…。給仕すると言うことは、まず自分の両親や祖父母と自分が一心一体になることであり、さらには隣近所の人々、あるいは電車などに乗り合わせたお年寄りたちとも、身体は別でも心を一つにすることである。

それとともに自分の子供だけではなく、他人の子供たちとも異体同心になるよう心がけることが大切ではなかろうか。お互いに給仕の心を持ち、助け合う努力をすれば末代悪世であるこの現実社会も極楽となる。今、自分が出来ること、それはたとえ小さなことであろうとも、日蓮大聖人の心をわが心とした実行実践は「法華経」への給仕であり、人々の安心を実現していくことと確信するものです。
常に希望を

哀しい世相といえます。汚れた環境、不正・腐敗の横行、荒れる人心。悲観するなというのが無理ですが、しかしお経は、ありのままの現実を認めよ、目を開けてよく見よ、そこには安穏の人生があるだろう、と教えています。要は常に希望。法華信者は泣かないはず。「楽観のススメ」が最初のメッセージです。なのに、暗いお話ばかりしてきたのではないか、問われているのは僧侶の自分でもあります。

次にどうすればいいのか。仏の慈愛の確実なこと、私が救われた(実は最初から救われている)喜び、これを自分の言葉で語ること。その連続です。しかし語るのは、むずかしい。だから勇気をチョッピリ噴射。「喜びを語ろう」が第二メッセージです。法華経は、そのような「語り部」の行為を讃え、恩典を示してつきることありません。第三のメッセージは「期待される私たち」となりましょうか。
家族のぬくもり

最近、一家団らんの食卓が減っている。先ごろ農林水産省が出した「農業白書」までが、家族がバラバラに食事をする「孤食」、食事抜きの「欠食」の増加を取り上げている。中央教育審議会が今年六月に出した答申では、「家族一緒の食事の大切さ」を新たに付け加え、「家族全員が少なくとも一日一食は共に食事をして」と呼びかけた。

心の発達に食事は大きな影響を与える。昔の母親は食卓に座った子供の顔色や食欲の有無を見て、健康状態を見極めていた。また食事を家族の対話の大切な場にしていた。父親は「飯粒は残すな」「よく噛んで」と、食事のマナーや食べ物を大切にする、しつけをしていた。ご先祖さまに、お仏飯をお供えして家族全員ご宝前でお題目を唱え、朝食には、お仏飯を下げて頂く。そういう家族には孤食も欠食もなく家族のやさしさとぬくもりがある。

現住職 和田日勇上人
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娑婆即寂光

お釈迦さまは、私たちの住んでいるこの世界は仏さまの世界だと説いておられます。生きとし生けるもの、すべてを衆生と言います。この衆生すべてが仏性を有している、と経文にありますが、この世界を厭離穢土との見方をしている人々もいます。しかし、仏教の教えは、この世を絶対的に「穢土」と見ているのではありません。

日蓮大聖人は「浄土といい穢土というも土に二つの隔てなし。ただ我等が心の善悪によると見えたり」と述べられています。これが「娑婆即寂光」です。この世界がそのまま寂光浄土だと言うのです。問題は私たちの見方です。普通の見方をすればこの世界は穢土。見方を変えれば、この世界は仏さまの世界なのです。その見方、心の善悪の差が大事であり、日蓮大聖人が「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」と示されたように、唱題受戒の信仰生活が大切であります。
枯槁の衆生

今、仏法は衰退し、邪見がはびこり、争いの絶えない、まことに住みにくい世の中であります。そこに住む人間は、時代の波によって信念も理想も流され失い最後には年老いて「もう、しょうがない」と諦めてしまうのです。お釈迦さまは、この人々を「枯槁の衆生」と名づけました。「枯槁」とは、潤いが足りないで枯れ果てているという意味で、人間が様々な迷いによって疲れ果て、弱りかえっているという状態です。

私たちがこの世の中で生活するということは、荒れた土地に木を植えるようなもので、木が枯れず立派に育つように、お釈迦さまの教えという水や肥料をしっかりと与え、いかなる困難にも挫折しないように心を養ってゆくのです。

水分を十分に含んだ大きな雨雲が、乾いた大地を潤すように、お釈迦さまの教えが、私たちの心に潤いを与えてくださるのです。
是好良薬今留在此

宮崎県都城市の信者さんがいます。ある日「あの印度、核実験やって仏陀が微笑んでいる≠ネんて言って、どうしようもないね。人間、何か足りんのじゃないかなあ」と言う。私いわく「よけいなものがあるんじゃないですかね」…???

その昔、怨みは怨みによっては止まず≠ニ、釈尊の言葉を引いて東京裁判を批判した印度――ガンジー・ネルーの下、世界平和の先頭に立った印度はどこへいったのか? つまらん国になったのは印度だけではない。わが日本も、弱肉強食の競争原理がわが物顔に歩き始めた。グローバルスタンダードのお面を被って…。西洋文明による数百年の支配は世界中を金と力の信奉者にしてしまった。

今、東洋の真の叡智だけがこの闇を照らすことができる。万法同帰のお題目の響きこそが狂った衆生を正気にもどす。救いはそこにしかないと思います。
僧侶とは生き方


博多で「老後をどう生きるか」というテーマで講演し、会場で信者さんに会いました。元専門学校の先生で、お寺参りなど全くしない人です。挨拶代がわりに「どうでした私の話は?」と声をかけたのです。

彼はじろりと私の顔を見ると「良かったけれど、あなたが褒められたいとか、認められたいと思っているならば、あなたの話はどこか嘘になりますよ」と痛烈なパンチを浴びせ、「坊さんという職業をどう考えていますか」とさらにせまってきました。そのときの講演のテーマを思い出した私は「私自身、僧侶というのは職業ではなく生き方≠セと思っています」と必死に答えました。「生き方ですか…」とつぶやいた彼は、ようやく納得したようでした。

退職後、人生の目標を失ったようで彼自身迷っていた時期だったのです。そして今、仏の教えがどう生きるかにあることを痛感している彼なのです。

東光山護国寺 正面
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出会い


現代ほど人間関係の難しい時代はないのです。かつては愛し合った夫婦が、傍目にも羨むほど慈しみ合っていた親子でさえ、お互いをののしり傷つけ合う事態になったりする。したがって、一人安易な世界に閉じ籠もり他と交わりを断つか、同じ世代の極かぎられた友にのみ心を開く生き方をよく見かける。

仏陀は菩薩としての生き方として「上求菩提」とおおせになり。宗祖は「信解脱」の道をお示しになり、「以信得入」とお導き下された。

外へ出てみることだ。何かを求め行動することだ。「求めて信じ、信じて求めよう」、人と接することを億劫がっていたら、いつまでたっても一人でいる以外にない。広い世界に飛びだしていく努力をしよう。そこにはすばらしい出会いがある。恋人との出会いだって…。「縁はいなもの味なもの」である
心の鏡


ラジオで、ある宗教団体のコマーシャルを耳にした。どうしてこうも言葉が似ているのだろうかと思う。純粋であり、明るく真面目に努力する人、これが信仰者のあるべき姿として語られる。どの宗教も、この点については大差ない。

はたして私は純粋で明るく真面目に努力しているかどうかと省みる。純粋どころか、いつも計算高く、損をしないことばかりに腐心している。愛想笑いはするが、家では仏頂面をしている。何事にもいい加減で中途半端である。努力をしていると思っている内はあまり進歩がない。より良い信仰者であろうなどと思うと、自分も相手も駄目にしてしまう。

宗教は人の心に安らぎをもたらすのが使命だという。お世辞が入っていたら慢心こそすれ、安らぎには遠い。本当は鏡のようにわが心を映し出してもらいたい。少し辛いが、愚鈍な私にはその方が有難い。
佐渡にお参りして

長年の思いが通じて、檀信徒とともに佐渡三本山を参拝しました。山陰の地を早朝に発ち、特急を乗り継ぎ夕方に佐渡に着きました。

翌日は天候に恵まれ、佐渡ご法難の霊跡、日蓮大聖人に雪中給仕した阿仏房・千日尼の妙宣寺。「我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん」の三大誓願『開目抄』をご著作された根本寺。『観心本尊抄』を図顕された妙照寺を訪ねました。

あるお上人の法話の際、「大聖人は身命をかけて正しいお題目を広められました。我々は尊いお題目を身命をかけてお唱えしなければなりません」と言葉を聞き、大聖人の「御魂」に報恩感謝のお題目をお唱えして、佐渡を後にしました。皆さま、立教開宗七五〇年(平成十四年)。正しいお題目をお唱えし、心を磨きましょう。
人みな「仏子」

人間はすべて平等で、互いに尊敬しなくてはならないはずなのに、世界各地では国家・民族・思想の異なりによる対立を生み出し、紛争が繰り返されている。また、人間の頭脳を最大限に活用して生み出した兵器や化学薬品が、人間の生命を脅かしている。

悲しむべきことである。しかしこの地球には、近代文明や流行とは全く無縁で、自然とともに見事な共存・調和をしながら悠々と暮らしている民族もいる。科学文明に浸っている私たちより、彼らは幸せなのかもしれない。

仏教では「草木国土悉皆成仏」という教えがあり、一草一木のみならず山や川や石までも、「仏」の分身であると説かれている。私たち自身が「仏子」であるという自覚を再認識し、社会・自然・宇宙、そして「み仏」との連帯感を体感して、自己に内在されている「仏種」を合掌で育てていこうではないですか。

先代住職 井上日召上人銅像

草莽崛起の時来る

安政6年、長州藩の吉田松陰は、それまでこだわっていた藩や幕府や朝廷という考えを捨て、この日本の改革を『草莽崛起(そうもうくっき)志の有る民衆の一斉蜂起』を求めました。彼の死後9年、全国の多くの志ある人々の犠牲と努力によって明治維新は達成されました。

仏の誓いと願い「誓願」とは万民の幸せ、世界の幸せ。しかし、人々は個人の幸せ、団体の幸せ、国の幸せ、同盟国の幸せを願い、他と対立し、いがみ合います。人々の、その考え、主義主張が万民の幸せに通じるのか否か。その全てを原点に戻して再点検をする時が今また、この日本に、世界にやってきました。

草莽崛起の人々は今どこに…お題目をお唱えしているあなた。あなたこそ、志の人、仏の誓願を実行する人なのです。全てのとらわれを捨て、仏の誓願を胸に立ち上がるときです。皆と一緒に一歩ずつ…。
無限世界の有限の数字

人間は生きて行く上で「数字」は切り離せない。先日ある新聞に無償労働の貨幣評価、すなわち専業主婦の家事の年間評価額が掲載され、人間の評価もここまできたかと思った。

私たちはこの世に生を受け、生年月日から始まり、学校やスポーツでは点数が必要条件であり、会社では月給の額で人生が決まり、老いては定年制で職を追われ、病気になると血圧・血糖値などあらゆる数値で体調が判断され、平均寿命で終焉を暗に示され、最後斎場の火葬順番札で我が身の処理が決まる。不安なものでは震度や環境汚染度、さらには地球上に増える核兵器保有の国々、これらは実に恐い数字であり、何ともやりきれない気持ちがする。

仏の寿命無量百千萬億載阿僧祇劫の無限の世界から見ると全て我々人類の我欲から生じた数字。仏は常に無限の生命を共に生きることを望まれている。我々はなんとかこの事に本気で気付きたいものだ。
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豊かな心を取り戻そう

最近中学生等による、心のブレーキを突然失う「キレる」という現象が注目されている。これは「現代型栄養失調」も一因と指摘する声がある。

広島県福山市立女子短大の鈴木雅子教授が中学生千二十七人の食事と心について調べた結果「全体に親の関心が薄い子ほど家族そろって食べる回数が少なく食事の質も低い。コンビニ食が常態化し、脳の健康に必要な栄養素もとれていない。しつけや教育以前に、人間の生理的基盤が危うい」とのことです。

日蓮聖人は「米変じて人となる、人変じて仏となる」とお示しです。私たちは円満な人格完成に向かって、毎日バランス良く三十二品目の栄養を取り、家族そろって食事をする。そして毎日、家族そろってお仏壇の前で感謝のお題目をお唱えすることが、豊かな心を取り戻す方法です。
子は宝

神戸の中学生の幼児殺害事件をはじめ、少年の刃物による凶悪事件が続出し、又国会の証言による教育現場の荒れようのひどさを聞きます。現在の子供教育に何が欠けているのでしょうか。

戦中戦後の物資不足の世を生き抜いてきた日本人にとって現代は余りにも物が豊富すぎます。食前に唱える「一滴の水、一粒の米も功徳と辛苦によらざることなし」の教育の難しさを感じます。使い捨ての世の中で、物を大切にし、感謝するなど考えられません。それに加え、核家族で仏壇のない家が増加し、宗教心のない両親に育てられた子どもは、物質文明に走り、神仏に無関心な子どもに育っていきます。

非行を犯す子の家庭には仏壇がないと報じられています。三つ子の魂百までの諺通り、祖父母、両親と共にお寺、お墓まいり、そして毎日仏壇の前で、合掌しお題目をあげる姿こそ、子育ての肝要と思います。

昭和維新烈士之碑 四元義隆翁書

人を仏と見る心を

仏さまは、私たちが住んでいるこの世の中を、浄らかで明るい住みよい社会にしようと法を説かれましたが、今はその教えとは全く逆の方向に進んでいます。

例えば、政治は、住みよく明るい社会をという大目標を忘れ、相手は政敵、それを倒すための党利党略に明け暮れ、国民不在で政治不信を招いています。社会の中でも、相互不信の姿が見え隠れし、そのことが、青少年にも影響を及ぼし「いじめ」や「ナイフ」による殺傷事件多発の要因になっています。

法華経常不軽菩薩品には、「我深く汝等を敬う…汝等皆菩薩の道を行じて當に作仏することを得べし」と説かれ、日蓮聖人も仏の教えを受けて「不軽菩薩は所見の人において仏身をみる」と述べておられます。私たち法華経を信じる者は、「人を仏と見る心を」もって、相互に合掌礼拝運動を実践し、仏さまが願われた明るく浄い家庭や社会に変えていきましょう。
目を内面に向ける

私は自由・人権・平等を三本柱とする戦後教育を受けた世代です。私の親がそうであったように、かつての日本では忍耐・努力・勤勉を教育の要としていました。批判を恐れずに言えば前者は外に向かって、後者は自己の内面に向いての規範のように思います。

現在、青少年をめぐる一連の凶悪な事件について教育の荒廃が叫ばれています。原因は家庭、学校、社会いずれにもありましょうが、物質的繁栄と引き替えに得たものだとすればあまりにも悲しいことです。外に向かって何かを要求することも必要ですが、自己の内面へ目を向けることはもっと大切なように思います。

今、わが国は、あらゆる分野で大きな転換期を迎えているように感じます。私たちはもう一度自らの生き方を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。立教開宗七百五十年有余。日蓮大聖人開宗の本当の意味は何にあるや。自らを戒めるのみ。
礼拝に導かれる

生まれてこのかた数えきれないほど礼拝をしてきたが、真実の礼拝をしただろうかと反省しています。

私たちがしている礼拝の所作は、合掌して自己を捨て去る祈りをし、頭を下げ五体を地に投げ出し、釈尊の御足を頂き、その全体を掌で受けとめ、地より頭を上げながら、自己の眼前にお立ちになられた釈尊のお姿を、足から頭頂に至るまで順次に観取し合掌に戻ることである。つまり、自我を滅する誓いと、釈尊のすべてを頂き、その因果の功徳を譲られ、法悦にひたりたいという願いがこの所作に込められているのです。

さらに日蓮大聖人は、不生瞋恚但行礼拝された常不軽菩薩の法華経の一節を、お題目に等しいと説かれ、それは人の振る舞いであると示された。これは生き方としての礼拝であり、久遠の命につながる礼拝である。 どのような時であっても、お題目を唱える者として、礼拝に導かれる人生でありたいと願うのみです。
与える人になろう

托鉢に出られたお釈迦さまの姿を見た幼い徳勝は、何かご供養をと思いましたが何もありません。とっさにドロを丸めて土の餅を作って差し上げますと、お釈迦さまは喜んでそれを受けられました。

徳勝はその功徳により、お釈迦さまが亡くなって百年後、アショカ王として再びこの世に生まれて国を治め、八万四千もの塔を造ってお釈迦さまの舎利を安置し、ご供養されました。

仏教では、与え施すことを「布施」と言い、まず「与える人」になりなさいと説きます。土の餅は食べられないのに、お釈迦さまが受けられたと言うことは、施そうとする心が大切だと言うことです。

考えてみれば、この世の中すべてのものはお互いに助け合い、施し合って存在しています。席をゆずる、声をかける、みんな立派なお布施です。このお布施を忘れないお題目を唱えましょう。
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人間らしさとは?

人間と他の動物との「ちがい」は何処にあるのでしょうか? それは「考える力」をもっていることと、併せて「判断する」能力をもっていることでしょう。

昨今の事件を見聞するとき、人間らしさを自分で放棄しているように思われることが多いのです。これは、どうしたことなのでしょうか。人間が人間らしさをなくした時、社会は、世界はとんでもない方向に進んでしまいそうです。

宗教を持たないことが「知識人」だと、自慢げに言う人が多いのには困ったものです。外国では「私は無宗教です」と言うことは人間らしさを持たない人だと軽蔑されるのです。 考え、判断する事から「信仰」が始まるのだと思います。人間らしい人間になるためには、正しい信仰が基本だと思うのですが…。

護国寺鹿児島別院 山内日豊上人

身・口・意にお題目

「ただいま」と学校から帰っても家には誰もいない。昔と違い現在は夫婦共稼ぎの時代でもある。そういう中で小・中学生の子供たちは育っている。

犯罪の低年齢化と言われている今日、これらの原因は友達関係、社会環境、テレビの影響等と言われているが、はたしてそうであろうか。それも原因の一つではあろうが、最大の原因は家庭環境、家族関係であろう。第一に親子の会話がないのが実状で、親は子供の言動に気がつかない。

事件が起きてからでは遅い。自分一人で生きているのではなく、先祖あっての自分である。親の親、またその親というように自分の存在は無数の先祖のお陰なのである。その先祖を敬う心を持たせなければ。お題目を唱え、先祖を敬い、心に安らぎを持てば、人を傷つける気持ちもなくなる。身に、口に、意にお題目を植えつけようではありませんか。
むさぼりを抜ける

私たちは周りの人より、良い生活をしたいとか、人から敬われたいとか、出世をしたいといった思いが、心のどこかにうずくまっています。仏教の世界では、この心の状態を「餓鬼」「貪(むさぼり)」と表現しています。

餓鬼草紙に出てくる、お腹がパンパンに膨らみ、肋骨が見えて、痩せ細った姿が「餓鬼」です。望みが叶えられても、次から次へと新たな欲が果てしなく湧き続ける世界です。

そのような私たちにも、仏さまは分けへだてなく、誰にでも「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」と常に暖かく見守ってくださっています。仏さまのお気持ちを素直に受けとめ、自分の事ばかり考えるのではなく、周りの人の苦しみを取り除くくらいの気持ちを持ちたいものです。そこに「貪」の世界からぬけ出せる道が開けてきます。
小さな仏さま

 以前、オリンピックの開会式を見ました。雪ん子に扮した子供たちが爽やかで大変清々しく感じられました。

私は毎年、本山の檀信徒の方と共に寒修行の托鉢を行います。今年もある信者さんの家の前に立つと四歳になったばかりの男の子がおばあちゃんと一緒に玄関の板の間に正座して迎えてくれました。お自我偈からお題目に入ると目をつむり、合掌して大声で太鼓に合わせて唱題しています。何の雑念も無い無心に唱えるお題目。小ちゃな仏さま≠彷彿とさせます。私は心の中でこの小ちゃな仏さまに合掌しました。

参加された信徒の方々のお題目の声も一層大きく響きました。
 幼な児の しだいしだいに智恵づきて
   仏に遠くなるぞ 悲しき
などと言われております。小ちゃな仏さまを育てるには、取り巻く大人たちの責任が大でありましょう。
少欲知足広げよう

 月回向のお経廻りの途中、昼食に入ったそば屋。先客が十人近くいた。相席した二十代の若者が食べ終え、見ると、めん類、ごはん、おかず等をそれぞれ、二口分、十口分、いや半分近くを食べ残している。まわりを見ると、相当の年輩の人たちでも、六、七人が多少とも食べ残していました。

私たちの日常は食べ物にかぎらず、あらゆる生活必需品をすべて使い切らないで、また、少しの破損でも捨ててしまう現状にあります。

食事の時に合掌していただきます(あなたの命を)≠ニ、一粒の米、一滴の水も無駄にはしませんと誓う。この心がなければ、世界中の資源は枯渇してしまうだろうと思います。物質文明に毒されて、命の大切さを忘れてはいけない。法華経の教えの通り、今、「小欲知足」の波を世界中に広げなければいけない。まず、個々人がそれを誓願目標に致しましょう。
真の功徳を頂くための行

写経は、精神を集中させてお経を書き写すことにより、心を落ち着かせ、あわただしい日常生活に安らぎの一時をもたらす。またなによりも、無心で臨むことにより、お経の功徳を得ることができる。

お釈迦さまは、法華経の一句一偈でも受持し、唱えることで、その身そのままで仏になり、この世はそのまま浄土になると説かれている。そして、苦しみ悩む衆生を法華経の功徳によって救おうと、命をかけて実践された日蓮聖人は、南無妙法蓮華経のお題目を唱えれば、それは法華経の全文を読誦するのと同じことと説かれた。

お題目を一度写経することは、法華経一部を写経する功徳につながる。またお題目を口にしながら写経を行うことによって、私たちは法華経・お題目を受持(受け持つ)、読(経文を読む)、誦(暗唱する)、解説(解釈して説く)することも伴った、法華経・お題目の修行を自然に続けられる。

写経を行うことによって心穏やかに、寛容の精神を培い、平穏に家庭生活、そして社会生活がおくれれば、それはすばらしい功徳です。写経はそのような本当の功徳をいただくための行です。
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最高の「遺品」

 二月十五日、お釈迦さまがインドのサルナートで亡くなったとき、残された遺品は遺骨だけでした。

インド各地の王様は、遺骨(仏舎利)を求めて争いを起こしそうになりましたが、弟子の仲裁によって八つに分骨し、灰までも分け合って十ヵ所に塔を建て、お釈迦さまを偲ぶよすが(形見)としてました。

その後、アショーカ王は、もっと多くの人がお釈迦さまを偲べるようにと、再び遺骨を分けてインド全域に八万四千の塔(仏舎利塔)を建てたといいます。

亡き人を偲ぶ遺品や遺影は、親しい人を亡くした者にとってはなにものにも代え難い形見です。

そんな形見の中で、最高の遺品といえば、今生きている私たち自身なのです。

お釈迦さまは「ことごとくこれ我が子なり」とおっしゃり、日蓮聖人は「子の身は全体父母の身なり」とお示しになっているのですから。
み仏からの授かり

何とか「子宝を授かりたい」とか、「ぜひ男の子」を、といって、ご祈祷を受けられたり、産婦人科の門を叩かれたりされる方がいます。しかし、私たち人間は、自然の成り行き、天からの、み仏からの授かりものと、受け取っています。

私たちは今ある環境に、決して悲観したり、嘆いたりはしていないのです。与えられた環境に単に不満を持つだけでは、それは愚痴につながり、幸せにはなれません。

私たちの命は、み仏によって生かされています。智恵を働かせ、怠りなく勤めることにより、大いなる満足は得られるものと信じています。
仏さまがお待ち

庭でわが家の犬が吠えています。覗いて見ると、信者さんが来ておられました。わが家の犬はよく見かける人には吠えませんが、そうでない人にはいつも吠えます。その奥さんはご先祖の命日に限らず、度々お参りに来られ、犬も覚えていて、吠えないはずなのにおかしいなと思って周りを見ると、そばにご主人が居られました。その時のお二人の会話です。

「よく吠える犬だね」「私には吠えませんよ。あなたも犬に顔を覚えてもらって、吠えられなくなるほど、お参りして下さいね」「犬に覚えてもらうほどか…」「仏さまにもね」

お寺は檀家、信者さんの心の拠り所。本堂ではご本尊・お祖師さまをはじめ、神仏さまがお待ちです。お墓ではご先祖さまがお喜びでしょう。私はご夫妻のほほえましい会話を聞きながら「またお参り下さい」と掌を合わせました。
土に二つの隔てなし

日蓮大聖人の「涙ひまなし」という一語は忘れられない。涙は悲しい時のものと思われるが、宗祖のそれはうれし涙であった。苦しい生涯を送る人は多いが、宗祖ほど苦難の道を歩いた人はめったにいない。それほどの人がうれしい涙がたえないとはなぜか。

そこで、宗祖の一生成仏抄を思い出す。「浄土と云い穢土と云うも土に二の隔てなし」の一句である。ただ我らの心の持ち方によるといわれた。思えば大難四度小難数知れずのご生涯でも、これが法華経のためだと思えば苦も喜びとなり、うれし涙となられたのです。

法華経は苦しい世の中でも心の持ち方で幸せになる道を示しているのです。この世を浄土にする教えであります。蓮の花がどろ田の中で美しい華をさかせるが如く、幸せになるための教えであります。宗祖は法華経の教えを地でいく人です。我らは宗祖の弟子であるならば、その心を受け継いで、幸せにならねばならないのです。
意柔軟に掃き清め

 冬ともなると、毎日枯葉が舞い落ちるが、そのままにはしておけない。本山の檀家のお年寄りはお寺には大木が多くさんあって神々しいと言い、掃き清めて竹箒の目のあとがあると奇麗だと言う。

正に本山の護国寺境内は、園林堂閣宝樹花華多くして老僧の遊楽する所である。人間老齢六十路をすぎると知己朋友は皆すでに先だち、一人あとに残ってつくづく寂寥を感ずるのであるが、この年になるまでも、達者な健康体に育ててくださった師父の恩を思い、なお幼少年時代によくお世話になった方々のありし日を偲び、その墓を掃除しながら語りかけると、微笑ましい顔で答えてくださる。

意柔軟に一心に仏を見たてまつらんと、本山境内墓域の清掃、仏事所作に励む時、生死即一如なれば、常寂光土現前し、仏はこの土にあって法を説き給い、法華の行者、法性の土にあって自受法楽せんと願うのみです。
誓願新た倶会一処

「倶会一処」という文句がある。「倶に一つの所で会いましょう」という意である。お墓にも刻んであるのを時々見ることがある。「あの世に行っても、またいっしょに一つの所でお会いしましょう」ということであるが、こんなすてきなことはない。

「生、老、病、死、愛別離苦、所求不得苦、怨憎会苦、五薀盛苦」と人間には八苦あると言われているが、この中の「怨憎会苦」を多くもっている人には、とても倶会一処というわけにはいかない。

あの世で、また愛する人と会うことができるが、他の人とも会うのである。愛する人以外の人も死んであの世に来るのだから、そこでまたそういう人とも会うことになる。ということは、この世でいかに怨み、辛み、憎しみの人を少なくするかにあります。新年にあたり、このことを誓願してみては如何であろうかと思います。
私たちこそ仏

「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」とお釈迦さま。私たちは一人ひとり、仏の子として、無限の可能性をこめた尊い存在として、この世に生まれました。だから一生懸命お題目を唱えたら、みんな仏さまになれるのです。いや仏さまになれるのではなく、もともと私たちは仏なのです。仏さまなのだと自覚して、仏さまのような振る舞いをしなければならないのです。

つまりお題目を心の底から唱え、一人でも多くの人にお題目を広める努力をし、三宝諸天善神のご守護をいただきつつ、この世でお互いみんなで仏さまになりましょう。死んであの世へ行ってから仏になるのではなく、この人生を生きながらみんなで仏になってまいりましょう。

これが日蓮聖人の示された「即身成仏」です。さあ、今からでも遅くありません。心を一つにお題目を真剣に唱えることを誓願しましょう。
大自然はみ仏の世界

錦秋の彩りも鮮やかに、自然は日毎にその装いを凝らしつつ、行楽の季節を提供してくれています。景勝豊かな国土に生を受けた恩愛に感謝し、移ろいゆく大自然の無限の利益に心を洗われるばかりです。

日蓮大聖人は「大地は草木を生ずるを以て行となし、天は潤すを以て行となす」と、地水火風空の五大の慈悲を妙法蓮華経の五字で示され、それこそが「本化自涌の利益」に他ならないと説き遺されています。

法華経信仰の生活化・実践化で、何よりも心得ねばならないことは、み仏と我等衆生との関係です。み仏の存在が、常に我等一切衆生と共に在られることの真意を、よく理解した上での信行でありたいものです。

「み仏の世界」が、そのまま「久遠の本仏」でありますから、大自然への渇仰讃歎は本化自涌の利益の中に浸る法悦の境地であり、この上ない歓喜であるのです。
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悔いずに生きる

人間の一生には幸せな時もありますし、不幸な時もあります。しかし、全体としてみるとほとんどの人の場合似たような生涯を送っているのかも知れません。
「天災は忘れたときにやってくる」「いつまでもあると思うな親と金」
といったことわざも、その意味するところは似たようなものといえるでしょう。どんな不幸のどん底にいる時でも、じっと耐え忍んでいればやがて幸福がやってくるだろうと考えることによって、その苦しみを乗り越えねばなりません。

「冬来りなば春遠からじ」といった思想は四季のある日本の人々の共通の概念ではないでしょうか。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。苦楽はまさにあざなえる縄のごとし。過ぎ去った日のことは悔いず、ただただ強く生きねばなりません。日々是れ好日なり…。
いまこそ第一の財

ある新聞の投書。「お母さん、お金で買えないものは何だろうね」小学校一年の次男坊が不思議そうに言った。聞いて見るとテレビのアニメーションを見てのセリフであったらしい。「そう時間、友達でしょう。それからあなたもお金では買えない、また目に見えないもの、それは心でしょう」。多分まだ理解は出来ないと思いながら答えた。

「お母さんの心もお金では買えないよね」と次男坊はにっこり笑った。私を困らせる次男坊だが―。何よりも「お金で買えないもの」と問いかけに私はうれしく、生かされてある心を教えられたのです―。

とかく人命軽視の世にあって、子は親を尊敬することを忘れ親も子を信じられずその上、自分自身すら見失っている人が多い。この様な時代こそ、自ら仏の説かれた教えに耳をかたむけなければならない。「命と申す物は一切の財の中に第一の財なり」。命の尊厳、ありがたさを教示されておられるのです。
気づかぬ周りの素晴らしさ

生きづらい世の中だ、みんな自分のことばかり考えて、と思っていたら、りっぱな姿の人がよそからやってきたんです。会う人にあわせて姿をかえ、言葉づかいもかえるんです。そして、いいことをやさしく教えてくれるんです、ありがたいですよね、ほんと。

しかもこの人の先生は、行った先の人や場所を見さげてはいけないよ、といって送り出したそうです。えらいじゃありませんか。強い者が弱い者を、勝れた者が劣った者を見さげるのが普通なのに。だからこの世は苦しくて悲しくて住みにくいことが多いのに。

その人に、なんでここへ来たんですときいたらね、すばらしい人がいるから会いに来たんだ、というんだけれど、あの人のことだよ、と言われるまで気づかなかった。はずかしかったですよ。わからないんだよね、まわりの人のすばらしさ。
(妙法蓮華経・妙音菩薩品第二十四変文)
お題目で回る功徳

十二日間で大臣の座を下りた佐藤氏が、就任の記者会見の時に過去の汚職事件について質問され、過去の事は忘れたとの意味で「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と発言して世間の失笑を買いました。

ことわざ≠燻g用法を間違えると、とんでもない事となります。情は人の為ならず≠燗ッじで、「情をかける事がその人のためにならない」という説と、「人に対して情をかけておけば、それがめぐりめぐっていつか自分に良い報いが来るのだ」という説の二通りがありますが、本来の意味は後者のようです。

我々お題目を唱える者は慈悲の心や報恩感謝の心を持って他人に奉仕する事が、回り回って自分の功徳になると教えられて来ました。宗祖立教開宗七五〇年、宗祖への報恩としてお題目の輪を拡げ、宗祖の大誓願である立正安国を実現するよう努力するならば、必ず功徳は帰って来ます。
家族の絆

愛情と信頼を深め、親として、子供として、それぞれの役割の大切さを認識しつつ、笑いのある、明るい家庭生活を送ることが、家族というものであるのに、最近では、ややもすると、それが崩れかけているように思える。

全体より個の主張を重んじる風潮が社会に蔓延し、それが家庭の中にも浸透してきたことに、将来の不安を感じる。親が子を、子供が親を信頼し、思いやりの心をもって、お互いが助け合い、相手の気持ちを察し合う努力を怠らないことが大切です。

そこに、お題目の精神を養うことが必要になり、信仰心が大切になってくるのです。自分のためにも、そして家族のためにも、ひいては世界中のためにも、心のこもったお題目を唱え合いましょう。
チーンの音色は今…

桂文珍さんの落語に「ハイテク仏壇」というのがある。「チーン」と鳴らすお鈴の音に反応して、テーブルから出たり入ったりするお仏壇が考案されたのであるが、台所で鳴る電子レンジの「チーン」の音にも反応してしまうのが欠点で、発売中止になったという話である。

「チーンとしてから食べてね」。毎日の会話でよく使われるこの言葉は、電子レンジの音の方だが、長い文章を要約して生まれた新語の代表格といわれています。しかし、私の子供の頃にも、同じ言葉が日常語として使われていました。その時の「チーン」はお鈴の音の方であって、「仏さまにお供えしてからいただきなさい」の意味です。

物の豊かさの中に忘れてきた音。今、子供たちにとって家庭で必要な「チーン」の音は、お鈴の音色と、その姿と心です。
命重ねて心の財も


日蓮大聖人は、「いのちと申すものは、一切の財の中の第一の財なり」と仰せられている。まずはこの年齢まで、つつがなく生活させていただけたことを心から仏祖三宝に感謝したい。そして早晩、鬼籍に入らなければならないわが身だから、お祖師さまが四条金吾に示したように「蔵の財より身の財、身の財より心の財」を一層積んで、他日、胸を張って閻魔の庁へ赴けるよう、残された人生の日々をひたすらお題目の信行に生きたいと願っています。
お題目ある限り

高齢社会が急速に進展し、さらに少子化が追い打ちかける時代が来る。安心して老いる社会は構築できるのか。「親孝行したくないのに親がいる」の川柳がある。家庭の基盤は揺らぎ崩壊をしかねない。

暴行、暴言、介護放棄、経済掠取などの老人虐待が密室で進み、深刻さを増すとの報道である。老いた身を、老後の貯えを安心して託せる者がいるのか。それにしても、財産があるから看てもらえるでは寂しい。

お盆のお経に歩くと、要介護の高齢者が目につく。「ありがとう、すまないも言い飽きた」と嘆く。「眼は心の窓。気持ちさえあれば伝わるもの。いつでもお題目だよ」といたわれば、衣の端をつかんで離してくれない。

どんな境遇にあろうとも、お題目のある限り、みな仏の子。手を合わす者を誰が足蹴にできようか。釈尊の「今日いのちあるは有り難し」の聖句を両手で受けよう。生死をつらぬく法華経の救いを求め続けましょう。
お題目からはじまる

もう二十年も昔のことです。親しかった小学校の校長先生が二学期の始め、生徒たちに「夏休み中はお盆がありましたね。お寺に行ったり、お墓へお参りした人は…」とたずねたそうです。恥ずかしさも手伝ってか、手を挙げた生徒はほんのわずかだったらしく、私はそれを聞き驚いたものでした。時は移り変わり、現在では、お墓そのものが問われる時代になってきました。

年の始め、春秋の彼岸、夏の施餓鬼、盂蘭盆会、お会式、年の暮れなど、毎年私たちは仏さまの行事を迎えます。「お題目からはじまる」のスローガンのもと、老若男女を問わず、仏さまのみ前に額ずいて合掌し、お花を捧げ、お線香を立ててお題目を唱える習慣を身につけ、その輪を広げてゆきたいものです。

「以華香旛蓋 敬心而供養…皆已成仏道」(法華経方便品)
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法華経に心に生きる

法華経の実践者として知られる「宮沢賢治」の菩提寺身照寺を参拝しました。民芸店で「アメニモマケズ」の全詩を染めたノレンを購い部屋に掲げ一句一句を味わっています。その中の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズ」は現代の社会人に警鐘の一句だと思います。

先日、信者さんで五十八歳になる男性が、日曜日に少年野球の準備中、心臓発作で不帰の客となりました。高校時代には国体の選手にもなり、会社勤務のかたわらボーイスカウトの指導をしてスポーツ少年団野球チームを組織し、監督団長として三十数年その運営と指導にあたった人です。金も名誉も利益も求めずひたすら少年達に愛情を注ぐ彼の姿は賢治の詩の如くでした。

現代社会には、多くの事が、得か損か、有利か不利か、責任はどこかなどが優先される中でジブンノコトヲカンジョウニ入レズ℃ミ会の片隅に法華経の心で生きた彼の冥福を祈って止まないのです。
お蔭さまで心の宝

「ご本山を全部お参りさせていただきました」

と、ある老信徒が報告にきてくださった。持参したご首題帳(新聞社出版)を拝見すると、総本山身延山をはじめ霊跡由緒寺院五十五ヵ寺のご朱印がすべて押されている。「いやあ、これはたいしたものですよ」と褒めると、「自分だけの力ではありません。みんなお蔭さまです。生き甲斐ができ健康にもなりました」と、喜びを満面にして言うのです。

聞けば日蓮大聖人七百遠忌(昭和五十六年)の時からはじめたというから、二十年かけて巡拝したことになるのです。簡単なようで実は容易なことではない。志を貫徹する強固な意志と、信仰心の持続、それに健康でなければできないし、周囲の人たちの理解も時間的余裕も必要です。

「これで立教開宗七五〇年の清澄山のお祖師さまへ一つご報告ができました」。生き生きとしたその顔には、法楽にひたり心の宝を積んだ充実感がありました。
仏法修行の根本は信心

六十五歳の信者さんは大家族の世話のため早朝から深夜まで働き続けた、よなべの針仕事のとき、針箱を見台がわりに経本を置き、仕事をしながら見ては唱え、早く覚えることができたと喜んでいました。

信者さんは若い頃から耳が遠かった。老齢になるに従い難聴の度が進み、補聴器も役立たなくなった。病床についてからは、目がさめている時は時間にかまわず法華経を読誦し続けた。経本がよれよれになり、破れると孫娘にはってもらって読経三昧の毎日を過ごした。その信者さんに不思議なことが起こった。耳が聴えるようになったのです。信心のおかげである。

日蓮大聖人がおっしゃっている通り、仏法修行の根本は信心であることを仏さまが実証してくださったのです。
釈尊に渇仰の誠を捧げる信仰を

法華経寿量品に釈尊の永遠の実在と救いが示されています。これこそ法華経の真髄ですが、毎日寿量品を拝読していても、本仏釈尊が凡眼に拝せなくとも、在しますことをありがたく、尊く受けとめておられる方が少ないようです。

熱心に信仰する方が明確に尊く思われるのは日蓮大聖人のようです。釈尊が一切衆生へむけて誓われた永遠の救い、そのすべてが妙法五字のお題目に結集されています。それに心遂醒悟(尊さに醒めて)し、唱題妙行の悦びに生きられるよう導きくださったのが日蓮大聖人でした。そして、末法唱導なるがゆえのご法難に遭われたのです。

宮沢賢治が三十八歳の死を超越できたのも釈尊の在しますことと唱題の中に包まれきれたからです。教主釈尊に、大導師日蓮大聖人にお褒めいただける法悦をめざし、お互いに精進いたしましょう。
合掌笑顔明るい心

合掌は両手の指をそろえ合わせて拝むこと。胸前に立てて心をこめて拝むこと。右手は神聖な手、左手は不浄な手・神聖な面と不浄な面とを合一したところに、人間の真実の姿があります。

合掌とは、権実不二の意を表す。謙虚・素直清浄・平和・安穏・権化の姿。泰然自若として宗祖龍の口の難の如し。

笑顔、笑う門に福来る、笑う顔に矢立たず、笑いは人の薬、一笑一若、にこやかに笑いかければ心のわだかまりは自然に解け、和やかになります。日蓮大聖人は「もし親に何もすることができなかったら、日に二、三度笑顔をみせよ、それが何よりの親孝行」と教化されています。笑顔で迎えれば笑顔で答える。

合掌で笑顔、明るい心の生活こそ病気にかからない、大往生はもちろん、奇跡的な幸運に恵まれるのです。
真心の信仰者

檀家のお葬式に行って、控所になった家のおばあさんのお話です。仏壇を見ると、きれいな花が供えられて、仏壇全体が掃除が行き届いていました。

「主人をなくして十五、六年経ちます。毎朝仏壇の扉を開けながらお早うございます≠ニ言って、南無妙法蓮華経とお唱えします。ある年の事、いつも山盛りのご飯を供えていたのに、忙しさにまぎれて気持ちばかり、わずかしか盛りませんでした。そうしたら近くに住む姉が来て先祖さまへ毎朝御飯を備えていますか≠ニ言うのです。さらに実は昨晩夢に先祖が出てきて今朝はお腹がすいて困ると言っていた≠ニ話しました。驚いてそれからは前と同じように、たくさん盛ってお供えしています」と。

真心を以てすれば必ず通ずると感心しました。目に見えぬ神の心に通うこそ、人の心の誠なりけれ。お題目の修行を身口意に行うが肝心です。
一心欲見仏

「一心欲見仏」。私の好きな経文の一つです。この「一心」の「心」はどこにあるのでしょう。

ある日、二人の女子中学生がお寺に来ました。

「お上人さん、心はどこにあるのですか」。

突然の質問に戸惑いながら、「勉強しても成績が上がらないと思い悩んだり、お小遣いが少なくて欲しいものが買えないとか、困った時に頭が痛い≠ニ表現するね。それは頭の中で考えているんだね。しかし、家族が大病にかかったり、事故で命が危うい時には心配で胸を痛める≠ニ言うでしょう。命と直結したところ、胸の中に心はあるんじゃないかな」と答えました。

日蓮大聖人は「浄土と云ふも、地獄と云ふも外には候はず。ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏と云ふ…これをさとるは法華経なり」と説かれています。

どうぞ心からお題目を、法華経をお唱えください。
仏敬う凡夫です

仏さまは、常住で決して滅するものではありません。でも自分はといえば、一切のものは無常で必ず変化する事をつい忘れ、おそらく「すぐには変わらないだろう」とか、「まさか自分は」などと思っているのが実状です。

仏さまは、まわりの変化で心が動くという事は一切ないのですが、私は何かと心が動揺しやすく、自分というものが定まっていません。

仏さまは、迷いなどはなく、差別というものも一切ありません。しかし私は、自分中心の考えが多く、親しさや疎さ、損や得とかをすぐに思ってしまいます。

仏さまは、苦や悩みはありませんから、心の平和という本当の楽を得ています。それに対して自分は、わがままですぐ目先の楽を求め、それが実は苦の種になってしまうために真の楽がないのです。

だから私は、仏の徳と「顛倒」の自分を考え、常に反省しなければと思ってはいるのですが……。
心打たれる「誓願行」

昭和五十九年、三十八歳で夫を亡くした信者さんは、小学生三人の子供をかかえ、その後、まもなく仕出屋に勤め始めました。毎朝お仏壇に線香をあげ、お題目を唱えてから、歩いて十五分の仕事場に向かいます。その道中、道端に落ちている空カンが気になり、毎日これを拾いながら往復するようになりました。

定年退職後もパートで同じ職場に勤め、二十年にわたり空カンを片づけ続けているとのことです。

正義や道徳心が軽視されやすい混濁した世相の中で、信者さんがお題目を唱えながらも今も続けている利他行に、日蓮大聖人の誓願を少しでも受け継いでいこうとしている姿を目の当たりにした思いがするのです。
いただきます

日本の食事の作法、合掌、「いただきます」は、宗教的表現であることはまちがいありません。先年、北陸のある県で、「いただきます」を子供達に強要するのは信教の自由から問題があると、学校での使用を禁止したとの報道がありました。

これは逆に日本の宗教を無視する暴論であります。生徒の大部分は何百年に渡って、親から子へ伝えられてきた日本の「いのち」の信仰を無意識のうちに表現しているのです。

それは日本の社会を成り立たせてきた大切な共通儀礼でありました。その思想的根拠は、仏教法華経の「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」「一念三千(いちねんさんぜん)」の教えでした。

沢山のいのちをいただく、感謝と懺悔と誓願の祈りが、この「いただきます」にこめられているのです。いまこそ、すさんできた日本の社会に「いただきます」を響かせましょう。
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お陰さまで

「こんにちは、その後お元気ですか?」

「お陰さまで無事くらしております」

日常どこでも聞くことができる、ごく普通の挨拶です。ここで言う「お陰さまで」は、あなたのお陰で、あるいは他の諸々のお陰で、という意味のはずです。しかし実際にそのように考えているでしょうか。

人が「生きる」ことの中で、一番大切なのはすべてのものに「生かされている」ということです。身内、隣人、国内の人、世界中の人々や、大自然の中で育まれ、仏さまの大慈悲の中に生かされているという謙虚な気持ちを忘れてはなりません。多くの人々の心にこんな思いの輪が広がって、「お陰さまで」と言い合える世の中にしたいものです。

仏さまは常に私たちを見守ってくださり、「今此の三界は皆是れ我が有なり。その中の衆生は悉く是れ吾が子なり」とおっしゃられております。
天衣無縫なホトケサマたち

本山の境内に、近所の子供たちが母親や年寄りに連れられて、遊びにきていた。水洗い浄行堂の前に集まってきて、「ナムナム」と見よう見まねで手を合わせていた。そこへ母親や年寄りが寄ってきてお参りの仕方の世話をやきはじめた。そのうち大人たちは子供たちを放ったらかしにして口論を始めたのです。

子供たちは大人の世話やきから解放されて、ナムナムを撫でたり、水をかけたりして、天衣無縫にお参りしだした。それを見た大人たちは、恥ずかしくなったのか、子供たちの様子を見守りはじめた。

私のほうに視線を向けてきたので、「自然で、自由でそのままのほうが良いですよ」と言ってあげた。何か不服そうなので「実は、お子さんの姿が仏さまなのですよ」「大人の勝手な考え方で白いものをほかの色に染めないほうがいいですよ」と言うと、大人たちの顔にもとの笑顔が戻ってきたのです。
真心は花のように…

ある女の子が「コロの子供の名前はココロです。そのココロから生まれた子犬の名前を当ててください。」とクイズを出しました。答えは、コロの孫なのでマゴコロ(真心)です。

真心は、一途に咲く花のように偽りのない誠意に満ちた心のことです。花は誰におもねることもなくひたむきに精一杯美しい花を開かせ、それに接する多くの人々に喜びと安らぎを与えてくれます。

しかし、今の世の中は欲望などが先走りし、人の心は混乱しています。このままでは安らぎの世界を実現することはなかなか出来そうにもありません。

このような時こそ私たちは日々の生活の中で我欲・慢心・偏見・執着などの心を捨てて、真心をもって「さいわいは心よりいでて我をかざる」という、日蓮聖人のみ教えを活かし、心の中に理想の大輪の花を咲かせたいものです。
報恩感謝

私の知り合いに福岡市内の産婦人科医がいる。何百人の新しい生命の誕生に立ち会ってきたその方は、受胎という出発から出産というゴールに至る過程を司る偉大なもの≠フ存在を感じると言う。

そのゴールは人生のスタートであり、この生命とどう係わるのか、いつも大きな責任感で身が引き締まると言う。壁にぶつかると念珠を握りしめて思いを巡らし、日蓮大聖人に祈る。緊急の事態には自らの血を採り、産婦に輸血したこともあった。

人はいろんな壁にぶつかる。解決できた時には自力と自惚れ、失敗すると原因を外に求めてしまう。いずれも心の苦痛からの逃避に過ぎない。結果に至るまでを司る偉大なもの、すなわち仏の存在を認識した時、「祈り」が生まれ感謝の心が生じます。

最も近代的科学である医学の中で生きている人が、実は一番宗教を理解し、仏を敬い、先祖を尊ぶ人です。この医師の口癖は「報恩感謝」です。
苦難救う題目

最近、五十回忌の法事が続いた。「お陰様で父の五十回忌を務める事が出来ました」と、その一人の檀家の感謝の挨拶である。この方は幼くして父を失い、苦労の末に一家を成したのである。この様な法事が出来るということは医療の進歩で寿命が延び、世情は荒廃しても、戦争のない平和な時代の証とも思えます。

話は前になるが、五歳で亡くなった娘さんの五十回忌を立派に営んだ方がいた。敗戦でシベリヤに拘留の身となったが、数人で冬のシベリヤを脱走し、興安嶺を越えての逃避行が始まる。ある者は寒さと空腹のため倒れ、ある者は狼の犠牲となるほど大陸を転々とした苦闘の末、数年後、日本に帰る事が出来た。その方は、逃避行の間、お題目を唱え、亡き娘さんに「父を守ってくれ!」と祈り続けて苦難と闘ったと、法要後の席で当時を回顧し、お題目の尊さを話された。本当の信仰は実生活の中に生かされるのです。
まず後生を考えて


後生があるから、今生が大事であり、後生を思って、今生の生き方が考えられることもあります。私たちは毎日「現世安穏、後生善処」を祈り続けています。

日蓮大聖人は「先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と申されました。後生を先に今生の事はそれからと。今、私たちがもう一度真剣に考えるべきものは後生ではないでしょうか。それは懺悔滅罪の修行と報恩感謝の供養(=善根功徳)を行って、はじめて仏祖、先祖、父母も喜び、自分の現世安穏後生善処の幸せな生活が自然に与えられるものなのです。
危機知り行動する

かなり前の新聞書評欄で、アメリカ知識階級の中に、「カナリヤ理論」というものがあることを知った。その理論とは、国や社会が危機に入ったとき、その先頭に立って危機に立ち向かい自己犠牲も厭わないという意味のことであった。

かつて炭鉱でのガス爆発を防ぐ手だてとして、籠に入れたカナリヤでガス発生の検知にそなえたという。まっさきにカナリヤがガスにやられて死んでしまうのだそうです。

世紀末といわれる現代、戦後六十年という節目にあって、政治も経済も地球的環境も、不安と不信に満ち、不透明な明日を前に身を置いている。何よりも人間不信の時代といえるのではなかろうか。

立正安国を誓願された日蓮大聖人は、不信や不安の原因である不正・背徳・偽善・邪悪なるものを糾明し身をもって折伏された。私たちは、現代の危機を知り、先頭に立ち発言し行動する日蓮門下でなければと思います。
宗教戦争の時代

二十一世紀は「心の時代」「宗教の時代」になるであろうと識者は予想しておりますが、私の見るところ二十一世紀を待つまでもなく「宗教の時代」はすでに始まっております。それも最悪の状態です。

何が最悪かと申しますと、識者が予想した「宗教の時代」というのは、人々の幸せ、心の安らぎ、世界の平和というものでありました。それは物質中心から心中心への移行を願っての予想でもあったのです。

ところが昨今の諸宗教を見ておりますと「物欲と恐怖の宗教」がしのぎをけずっており、互いに相手を批判、我田引水につとめており、まさに「宗教戦争」の様相を示しております。

そこでご忠告を申し上げさせていただきますと、「入会(信)の強要」「浄財の強要」「会員増強の義務または強制」、この三つにあてはまったら「断固拒否」なさることです。特に若い人がねらわれています。くれぐれもご注意を。
心通わせ会う挨拶

「おはよう」「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえりなさい」家族同士で、朝、晩こんな会話をかわしていますか。

この頃、若い人から中年の人までお寺の玄関にきて、満足にご挨拶できる人が少なくなりました。「挨拶」とは、元来は仏教の言葉で、問答をして、仏の教えについての答えをひき出させるという、少々手荒い意味をもつ言葉でした。

力ずくでも心をひらかせるという意味から、だんだんと一般に使われるようになってきて、「言葉を交わし心をひらき通わせあう」という意味に変わってきました。

「おはよう」「こんにちは」のひと言が、ごく自然に口から出るには、日頃の家庭内での会話からです。親の方から、まずよびかけましょう。
自ら作る地獄、自ら作る極楽

「極楽は 西にもあれども東にも 北(来た)道探せ南(皆身)にあるぞ」

一休禅師の問答にこんな話が。ある武士「あなたはいつも地獄極楽の話をするが、地獄極楽は存在するのだろうか」。一休禅師「地獄極楽は、あるようであって、ないようでもある」。何回たずねても同じ答。武士は怒りだして刀の柄に手をかけた。一休禅師「その姿こそまさに地獄じゃ」。武士は自分の姿に気づいて平伏しました。

地獄極楽は心のありようで決まることである。日蓮聖人は「浄土と云ひ穢土と云も土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり。―迷時は衆生と名け、悟時をば仏と名けたり」といっています。

すべて私たちは地獄を自分で作ってしまっているのではないでしょうか。法華経の力によって極楽浄土建設に努力しようではございませんか。
寅さんの心の故郷

松竹映画「男はつらいよ」のシリーズも、寅さんこと渥美清氏の急逝によって四十八作を以て終わってしまった。しかし、寅さんの追慕する人々は大勢いて、全国各地から「葛飾柴又」へ出掛けて来る人達が、年が明けても引きを切らない状態である。お陰様で寺も門前通りも異常な賑わいを見せています。

寅さんは、はるかな旅の空にあって常に故郷柴又を片時も忘れることができない。それは、遠くへ行けば行くだけ望郷の念がつのり、懐しい想い出にかられてまた帰ってくる。このシリーズの唯一の海外編になったウィーンやドナウ河のロケーションでも、目の前を流れる河を見ると、すぐに「江戸川」と間違ってしまう程で、故郷を語る寅さんの弁舌はさわやかです。

「故郷は遠きにありて思うもの」とうたった室生犀星のことばではないが、われわれも「心の故郷」を大切にして、その想いを深めていきたいものです。
一瞬の今を大切に

魂は、ローソクの灯が消えるように、無くなってしまうという考え方と、肉体は滅しても生き続けるという二通りの考え方があります。

先日、宗教家研究学会で、臨死体験者のビデオを観せていただきました。病室に寝ている自分をもう一人の自分が上の方から見ている。暗いトンネルを光に向かって、どんどん歩いていくと、突然花園に出て、遙か向こうに川が流れ、渡ろうとすると、後ろから声をかけられて戻ってきた。館のような場所に赤鬼、青鬼などがいて追い返されたなど、洋の東西を問わず、大勢の人が同じような体験をしています。

私たちは過去、現在、未来にわたって生きているといえます。それは昨日があって明日があり、川の流れのように未来から現在、そして過去へと流れ、今の一瞬一瞬が未来を決める原因となります。今を大切に精進努力することが大切です。
お題目のパワー

日蓮大聖人は五十二歳の時、初めて大曼荼羅を図顕なされました。報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と示されておりますが、大曼荼羅には南無本仏とも南無釈迦牟尼仏とも書かず、南無妙法蓮華経と書かれました。なぜでしょうか。

もちろんこの妙法蓮華経というのが、私たちが読んでいるお経の事でないことは明らかです。仏を本尊とせよと明言しているのでありますから、経を本尊とすべき事ではありません。

ではお題目とは一体何でしょうか。南無妙法蓮華経とは本門の本仏の限りない働き、お力の事です。現代的に表現すると本仏のエネルギー・パワーではないでしょうか。インド・ネパール・アメリカと巡礼している法華経行者、あの過酷な環境でただひたすらお題目を唱え広めている多くの人々に出会い、お題目の大きな力、パワーをまざまざと見ております。ただ本仏を捨てたお題目は無力でありましょう。
「此経難持」である訳

この経は持ち難し。南無妙法蓮華経と身・口・意三業に唱えることは難しいのです。でも日蓮大聖人は私共を導くために次のように教えておられます。

大聖人の唱えられる題目の功徳と、我等が唱える題目にちがいがありますか、という松野殿の問に対して、「少しも勝劣はありません。なぜならば愚者の持てる金も智者の持てる金も、愚者の燃す火も智者のともせる火もはたらきは同じであります。しかしこの経文に背いて唱えれば功徳は異なります。懈怠、計我、浅識、着欲、不解、不信等の悪因をはなれ一心に唱えることが肝要」と。

世間のことでもつまらぬことは簡単ですが秀でることには努力がいります。品物も安いものは楽に手に入りますが高価なものは容易に手に入りません。仏教の最高の教え、そのエキスが南無妙法蓮華経です。聞信戒定進捨漸の修行のもと速成就仏身の大利益を頂こうではありませんか。
「ご遺文」を読もう

日蓮大聖人ほど多くの文篇を書かれ、今日に伝え残されたお方はいない。日蓮大聖人遺文全集をひもとけば、そのことは瞭然で、誰もが瞠目・圧倒させられる。

笑い話がある。かつて日蓮大聖人遺文のあまりのおびただしさに他宗の学者が不信し、あらぬ難癖をつけた論文を発表した。これほど多いはずがない、もっと少ないはずだと。それは不勉強と無理解によるばかばかしい邪推で、おそらくやっかみが根にあってのことではなかったか。憫笑すべきあきれたこの一事が証するように、ともかく日蓮大聖人遺文は多量なのである。

日蓮大聖人遺文は、我等にとって無上の宝財、比類のない宝物、かけがえのない至宝である。それらは秘庫に閉ざされ秘蔵されているのではなく、活字化され書物となって万民に公開されている。至宝は我等の眼前にあり机上にあって繙読が待たれている。日蓮大聖人はその遺文を読めと我等に勧めておられるのです。
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